「三田文学」特集の保坂和志 孤高だが「強力な磁場」に

松浦理英子「最愛の子ども」 同性愛の真実、超絶技巧で

(2017/01/25 夕刊掲載)

 第156回芥川賞は山下澄人「しんせかい」(「新潮」2016年7月号、新潮社刊)に決まった。初出時にこの時評でも取り上げて、「願わくば、この小説の清新さと大胆さが真っ当に評価されますように」と書いた身としては、我が意を得たりという気持ちである。4度目のノミネートでの受賞でもあり、順当な結果と言えるだろう。個人的な感慨としては、山下が研鑽(けんさん)を経て遂(つい)に栄冠を射止めたというよりも、やっと芥川賞が「しんせかい」のような作品に賞を与える時代になった、という思いの方が強い。今回から吉田修一が加わって選考委員が総勢10名になったわけだが、現在の顔ぶれは読み巧者が揃(そろ)っていると思う。言うまでもないことだが、優れた小説家だからといって他人の小説をよく読めるとは限らない。その意味で、現在の選考委員会は信頼に足る。芥川賞はしばらく「ブレない」だろう。

 「三田文学」冬季号の特集は「保坂和志」。私も論考を書いているのでここで触れるのはいささか気が引けるが、雑誌誌面での1人の作家の特集としては稀(まれ)に見る気合の入ったものになっている。まず保坂本人が新作短編「ある講演原稿」と新連載エッセイ「TELL TALE SIGNS」第1回を寄稿している。それから保坂と安藤礼二のおそらく初の対談。磯崎憲一郎が保坂について語った公開インタビューの採録。そして新芥川賞作家山下澄人による長文のエッセイ「保坂さんの本を読んでぼくは小説を書くようになった」。その他、岡英里奈、石川忠司、千葉文夫、鈴村和成、土田知則、岡谷公二、私の論考。保坂は昨年秋に短編小説集「地鳴き、小鳥みたいな」とエッセイ集「試行錯誤に漂う」を続けて刊行したばかりだが、その精妙繊細な大胆不敵ぶりにはますます磨きがかかっている。磯崎と山下もそうだが、保坂の影響や薫陶によって世に出た小説家は何人も居る。現在の日本文学において、保坂和志は孤立しつつ(保坂はいわゆる「文壇」とは自ら断絶しているように見える)も強力な磁場を形成している。山下澄人の芥川賞受賞によってその磁場はより鮮明になったというべきだろう。もちろん、これは派閥や人脈的な力学の問題ではない。「小説」の問題、そして「文学」の問題である。

 松浦理英子の4年ぶりとなる書き下ろし長編「最愛の子ども」(「文学界」2月号)は、この極めて寡作の作家が真に途方もない才能の持ち主であることをまざまざと見せつける鮮烈な傑作である。共学だが男女が別々のクラスに分けられた学園の高等部に通う、17歳の女子高生たちの物語である。反抗心が強く時に問題を起こす今里真汐と、人気者なのに常に超然としている舞原日夏、この2人は「わたしたち」の中で「妻」と「夫」と呼ばれている。とはいっても日夏=夫と真汐=妻は性的な肉体関係を結んでいるわけではない。かといってごく普通の友情の延長線上にあるのでもない、もっと名付けがたい、曖昧だがそれゆえに深く固い感情の紐帯(ちゅうたい)のようなものが2人の間には存在する。2人の仲は中等部の頃からだが、高校生になって「子ども」が出来る。薬井空穂は不器用な小動物のような少女であり、皆と同い年なのに何につけ異常とも思えるような受動性を発揮する。空穂は「わたしたち」によって「王子様」と名づけられる。夫と妻と子。この〈わたしたちのファミリー〉の成り行きが、たくらみに満ちた筆致で描かれてゆく。

 たくらみ、というのはまず何よりも、この「わたしたち」という一人称複数形に因(よ)っている。この小説の語り手である「わたしたち」は、〈わたしたちのファミリー〉のクラスメイトである、それぞれに名前と性格を与えられた何人かの女子高生たちの集合体であり、その中の誰であるとは明示されない。そして更に「わたしたち」は「わたしたち」が直接知る筈(はず)のない〈わたしたちのファミリー〉の内輪の出来事や、真汐と日夏と空穂の心中までも、もっぱら伝聞と妄想によって詳細に記していくのである。とりわけ後半、3人の関係が少しずつ、やがて音を立てて変化していくに至って、それが現実に起こったことなのか、それとも「わたしたち」の想像でしかないのかが、判然としなくなっていく。しかも驚くべきことは、このような超絶技巧と言ってよい技を駆使しながら、この小説は、取っ付きにくい実験性とは無縁の、めくるめく面白さを有しているのである。

 松浦理英子は、デビューから一貫して、性愛にも精神性にも偏らない、だが単純な意味でその中間にあるわけでもない同性愛のかたちを描き続けてきた。それは一見、特異なすがたに見えるが、しかしすこぶるリアルでもある。むしろ、このような愛のあり方こそが、理想ではなく、真実なのではないか。「最愛の子ども」を読んで考えたのは、このようなことである。

佐々木敦(ささき・あつし=批評家)