又吉直樹「劇場」 自意識の空転、極限まで表現

温又柔「真ん中の子どもたち」 3つの「国」生きる姿、繊細に

(2017/03/30 夕刊掲載)

 又吉直樹が文芸誌へのデビュー作「火花」で芥川賞を受賞した時、私はこう書いた。「二作目がいつ読めるか。人気芸人の受賞が『文学』に齎(もたら)すものよりも、いきなりの芥川賞が、この出てきたばかりの新人作家に、何を与え、何を強いてゆくのかが気になる。短いものでもいいので、とにかくコンスタントに書いてゆくことを望みたい」。同作の雑誌掲載から2年余り、ついに芥川賞受賞第1作「劇場」(「新潮」4月号)が発表された。右のように書いたものの、なかなか執筆の時間も取れないだろうし、プレッシャーだって並大抵ではないだろうから、おそらくかなり待つことになるのだろうと考えていた(そう思ったからああ書いたということもある)。思っていたよりも早かったと言っていいかもしれない。しかも300枚の長編書き下ろしである。

 無名の小さな劇団で作演出を担当している「僕」は、何もかもうまくいかず、病的な気分で街をさまよっていたとき、ひとりの女性を見初めて、なかば強引に知り合いになる。偶然にも女優志望だった沙希という名のその女性と、ほどなく「僕」はともに時間を過ごすようになる。恋愛小説と言っていいだろう。だが、ここでひたすら描かれているのは、一組の男と女の関係の変遷というよりも、「僕」という人間のどうしようもなく卑小で自己中心的な内面である。彼にはおそらく才能がないわけではないのだが、あまりにも高い理想と純粋さを自分自身に強いているせいで、不遇感と他人への嫉妬と自己嫌悪が綯(な)い交ぜになった感情で身動き取れなくなっている。そんな「僕」を沙希は徹底的に肯定し、底なしにも思える優しさで受け入れる。「僕」は彼女にとことん甘え続け、そうしている自分への不満さえ沙希に向ける。とにかく「僕」の駄目さ、弱さ、非道(ひどう)さが半端ない。身近に居たら絶対に友だちにはなれないタイプである。

 物語の展開は良くも悪くも読者の想像を超えることはない。これはそういうことを主眼に置いた作品とは違う。作者がやりたかったのは、この「僕」の捻(ねじ)れまくった自意識の空転ぶりを言葉の力によって極限まで表現し、あわよくば「その先」に突破する、ということだったのではないか。結末は「火花」同様、とても印象的だが、そこに出口が見えているのかといえば、読者によって感じ方が違うだろう。全体として、情景や心理を丁寧に描き出そうとしている部分よりも、思わず筆が暴走していると思える細部に読みどころがある。文体はますます読みやすく達者になっているが、しかしサービス精神みたいなものはほとんど感じられない。私はそこを好ましく感じた。書きたいように書いている。屈折し過ぎていてどうにも笑えないユーモアの披瀝(ひれき)は、芸人だからこそ出来る技だと言えるかもしれない。

 温又柔(おんゆうじゅう)「真ん中の子どもたち」(「すばる」4月号)は、日本エッセイストクラブ賞を受賞した「台湾生まれ 日本語育ち」の小説版というべき作品である。日本人の父親と台湾人の母親のもとに生まれ、日本で育った19歳の「私」=天原(てぃえんゆぇん)琴子は、中国語を勉強するために上海へと旅立つ。彼女は語学の専門学校である漢語学院で、台湾人の父親と日本人の母親を持つ呉嘉玲(うー・じゃーりん)と出会い、お互いを咪咪(ミーミー)、玲玲(リンリン)と呼び合う仲になる。小説は「私」たちの1年間の漢語学院での日々を物語ることで、日本、台湾、中国という3つの「国」の「真ん中」で、言語とアイデンティティーが複雑に絡まり合った境遇を否応(いやおう)無しに生きる「子どもたち」の姿を繊細かつ鮮やかに描き出してゆく。「国語」をめぐって語られるエピソードのひとつひとつが興味深い。一挙に15年の歳月が経過した最終章で、或(あ)る人物が問いを発する。「母親から受け継いだ言葉」と形容されがちな「母語」は、本当に一つなのか。答えも提示される。一つではない。「母語」は複数の言語から成っている。

 青木淳悟「私、高校には行かない。」(「文学界」4月号)は、およそこの作家にしか書けない、というか書かない、じつにユニークとしか言いようのない「少女小説」である。中学3年生の君島澪(みお)を「主人公」として、彼女の夏休みが物語られるのだが、どこも特に変ではないようなのに明らかにおかしい。青木の小説はいつもそうだが、文章も構成も難解というわけではないが、意図や狙いがよくわからないのである。これはいったい何なのか、と思ったら、スタジオジブリ制作のアニメ映画「耳をすませば」の「二次創作」なのだった。しかしこれ、同作のファンが読んだらどう思うのだろうか。やはり何をしたいのかわからないのではないか。要するにそういうことを青木はやりたいのだ。小説の虚構性を誰とも似ていないやり方で追求している稀有(けう)な作家だと思う。

佐々木敦(ささき・あつし=批評家)