孫の寛さん論考 「自責の念強かったと考えたい」

福浦家由緒書を手元に置き、祖父信太郎について語る福浦寛さん

福浦家由緒書を手元に置き、祖父信太郎について語る福浦寛さん

 釧路アイヌ文化懇話会の前会長福浦寛さん(81)=釧路市=が、同会発行の書籍「久摺(くすり)第14集」に白糠第二尋常小学校(通称アイヌ学校)の初代校長で自身の祖父でもある福浦信太郎(しんたろう)(1863~1940年)についての論考を寄稿している。結論は祖父に厳しく、「信太郎はアイヌ民族のためではなく、むしろ明治政府が進めた同化政策(日本語を使うことなどをアイヌ民族に強要した国策)に貢献したと言えるのではないか」という内容だ。(椎名宏智)


■文書に記述なし

 福浦さんの家には、「福浦家由緒書」という文書が残っている。信太郎が、屯田兵に応募して古里の福井県を去った後、1920年(大正9年)に元本を書き写したものだという。年代順につづられ、信太郎自身についても記述がある。ただ、白糠第二尋常小学校(1903年4月開校)の校長を務めたことは書いていない。

福浦信太郎(白糠小学校所蔵)

福浦信太郎(白糠小学校所蔵)

 福浦信太郎とは、どのような人物だったのか。釧路市の春採アイヌ学校教師だった永久保秀二郎(1849~1924年)が記した「永久保秀二郎日誌」には、信太郎が来校したときの様子がおおむね次のように書かれている。

 「(白糠第二尋常小学校開校前の)1903年1月29日、福浦信太郎氏が春採アイヌ学校に来校。『教員は何人か』などと問い、算術や読書を参観して帰った。アイヌ民族への教育は経験がないため来校した」

 どうやら信太郎は、永久保を訪ねてアイヌ民族への教育方法を学んだらしい。

■偏見のぞく指針

 当時、アイヌ民族への教育をいかにすべきかは、信太郎が春採アイヌ学校に永久保を訪ねる2年前(1901年)の道庁令などで指針が示された。

 それを見ると、尋常小学校で通常3年間で履修すべき内容を4年間とし、簡単に教えるようにと説いている。また、この時代に教科だった修身は、「特に清潔、秩序、廉恥、勤倹(きんけん)(勤勉で倹約すること)、忠君、愛国」の心を養うように、と書かれている。

 履修期間を和人の子どもより1年間長く設定しているあたりに、アイヌ民族への偏見が垣間見える。

 福浦さんは「祖父信太郎は国策の屯田兵に応募し、厚岸に来ました。時代の流れに乗った行動です。永久保秀二郎に教えを仰いだ後は推測することしかできませんが、道庁令に沿った行動を取ったのではないでしょうか」と話した。

■「官」の評価疑問

 福浦さんがこのように考えるのには理由がある。福浦さんは以前、教育史の文献で「信太郎はアイヌ民族の子弟教育に貢献した」という趣旨の記述を見たことがある。しかし、官側から見ての評価が「貢献」であることに、引っかかりを覚えてきたという。

 福浦さんは「由緒書に白糠第二尋常小学校の校長だったと書かなかったのは、校長として働いたことに胸を張れなかったからでしょう。自責の念が強かったと考えたい」と語った。

 この白糠第二尋常小学校は開校から30年後の1933年に閉校となった。

 「久摺第14集」は千円(送料別)。A5判、243ページ。会員らが研究成果をつづっている。問い合わせは事務局の千葉さん(電)015・485・3800へ。