【肥後銀行】1879年(明治12年)、第百三十五国立銀行として創業。1925年(大正14年)に植木銀行など2行との合併により肥後協同銀行となった。28年(昭和3年)に現名称に変更。今年3月末で預金量3兆8750億円、貸出金2兆6890億円。本店は熊本市。123店舗を展開、従業員数2234人。

【鹿児島銀行】1879年、第百四十七国立銀行として創業。1944年(昭和19年)に鹿児島貯蓄銀行など2行と合併し鹿児島興業銀行、52年に現名称となった。今年3月末で預金量3兆4475億円、貸出金2兆6824億円。本店は鹿児島市。国内150店舗を展開、従業員数は2294人。

鹿児島市内の観光名所となっている西郷隆盛の像

西南戦争の際に激戦が繰り広げられた熊本城

 九州新幹線新八代(熊本県)―鹿児島中央間が先行開業して11年。熊本県の肥後銀行と鹿児島県の鹿児島銀行が今年10月に経営統合し「九州フィナンシャルグループ(FG)」が誕生する。西南戦争で戦火を交えて以来、約140年にわたって「犬猿の仲」と言われてきた両県が一つの経済圏を形成する過程で、新幹線の時間短縮効果が果たした役割は大きかった。ましてや縄文時代以来、同じ文化圏だった道南と青森県が、北海道新幹線開業を契機に一大経済圏として飛躍する可能性は小さくない。(函館報道部 宇野一征)

 地元の人々には衝撃的な出来事だった。「九州の常識ではあり得ない。まさにサプライズだ」。肥後銀行と鹿児島銀行が経営統合を発表した昨年11月、ニュースを耳にした熊本学園大の坂本正教授(金融論)は思わず、周囲の人々にまくしたてたという。

 ともに県内随一の預金量を誇り、財務状態も良好な地方銀行同士の統合は珍しい。だが、そのこと以上に地元を驚かせたのは、これまで経済交流が活発ではなかった両県の名門企業同士が県域を越えてスクラムを組んだことだった。

 ■西南戦争以来の壁

 地元意識が強い九州の中でも、各県の経済界を代表する銀行は「特に県域にこだわる傾向が強い」(坂本教授)。とりわけ熊本、鹿児島の県境には、熊本城を拠点とした政府軍と西郷隆盛率いた薩摩軍が戦った1877年(明治10年)の西南戦争以来約140年にわたって「見えないが分厚い壁」が横たわってきた。日本近世・近代史に詳しい志學館大(鹿児島市)の原口泉教授は今でも「両県の間の対立の意識構造は完全には水に流せないもの」と言う。両行の統合は、そんな通説さえも覆す転換点になる可能性がある。

 ■はじめは通勤通学

 「九州の常識では考えられないことが起きた」―。九州新幹線新八代―鹿児島中央間が先行開業した2004年当時、JR九州の唐池恒二取締役(後に社長、現会長)も坂本教授と同じ感想を口にしていた。もっともこの時は熊本、鹿児島両県の間で通勤・通学定期が売れ始めたことへの驚きを表したにすぎなかった。

 同区間の所要時間は34分と在来線の4分の1にまで短縮。それが通勤や通学という形で両県民の行動様式を変えた。それから11年。両県の経済交流を「通勤定期レベル」から「銀行統合レベル」へ引き上げたのが、11年の同新幹線博多―鹿児島中央間の全線開業だった。同区間は最短1時間17分で結ばれ、鹿児島県民にとり「福岡は日帰り圏に変わった」(森義久・鹿児島県商工会連合会長)。

 鹿児島、熊本両県の不動産、建設、小売業者などが商機をつかもうと福岡進出を加速。一方、両県の優良企業との取引拡大に向け、九州最大手の地銀、ふくおかFG(福岡市)は6月に鹿児島支店、準大手の西日本シティ銀行(同)は7月に熊本支店をそれぞれ営業部に格上げし、「南進政策」を強化しようとしている。

 「県境をまたぐことへの抵抗感は相当なくなった」。熊本商工会議所の田川憲生会頭は新幹線の時間短縮効果が、県境という経済交流の壁を取り払いつつあると証言する。結果、体力のある福岡企業の南進が顕著になり、対抗して「人口減や金融機関の競争激化といった環境変化に対応するため、経営体力の強化が必要」(鹿児島銀行の上村基宏頭取)と「恩讐(おんしゅう)」を越えて手を結んだのが今回の統合劇だったと言える。

 ダイナミックな九州経済の動きについて、整備新幹線に詳しい青森大の櫛引素夫准教授は「新幹線がもたらす変化に対応しようと、地域が死にものぐるいで努力した結果のブレイクスルー(大きな飛躍)の好例」と指摘。北海道新幹線開業後の道南と青森県も地元の受け止め方次第では、想像を超えた飛躍につながるとの見方を示している。

 ◇西南戦争◇ 明治政府に不満を募らせた西郷隆盛を中心とする鹿児島県の旧士族が1877年(明治10年)に起こした反乱。明治初期の一連の士族反乱のうち、最大で最後の内戦とされる。

 武力で朝鮮に開国を迫る「征韓論」に敗れて故郷の薩摩に戻った西郷は私学校を設立して士族の青年たちを教育していたが、次第に政府との対立が高まり、同年2月に士族ら約1万数千人とともに鹿児島を出発。戦争の火ぶたが切られた。

 ほぼ熊本県全域が戦場となり、西郷ら薩摩軍は熊本城を拠点とする政府軍(熊本鎮台)の兵団と衝突。この際、原因不明の火事で天守閣と本丸御殿が全焼した。田原坂でも激戦を繰り広げたが、次第に政府軍に押され鹿児島県の城山まで退却。政府軍の総攻撃を受けた西郷が自刃し、戦争が終結した。